昭和42年8月12日 朝の御理解


 昨日、久留米の石井さんの所であちらの喜代司さんの妹さんの都子さんという人の御霊様の一年祭がございました。私と、光橋先生、久富先生、三人で奉仕させてもらいました。本当に有難い式年祭でございましたが、その後で、親戚の方が全部見えておりまして、いろいろ信心はございませんが、まあ大事な時に椛目にお参りになるくらいのものですけれども、いまそれぞれにお話になられる事が、家の近所の者が合楽の金光様に一ぺんお参ってみたい。どげなところじゃろうかと。よっぽど先生が偉いのじゃろう、宣伝が効きすぎとる、かなんか、そういう風に皆さんが言われるのらしいですもね、中でもあのまんちょうというお茶屋の料亭をしておられます石井さんの叔母さんに当たる方なんですけれどね、もう私のお客さんの中にやっぱり十人くらいは、ぜひ合楽に一辺参りたいという人がございます。何かなかればなかなか参られんもんなあとこういう様な……今度の祈願祭にはどうしてもひとつ案内を頂いて行ってから、お導きをしてお参りしたいというようなことを言っておられた。それを私、聞きながら思うですね。
 ここのご信者さんが例えば500なら500あるとするならば、そういう一ぺん合楽にお参りしてみたい。何かあったら参るならば合楽だと言うように思うておられる人が沢山あるという事ですよ。それは私どもが想像以上です。何かきっかけがあったらお参りしょう。皆さんもどうですか。こうして合楽に御神縁が出来た。そしておかげ頂いて話しされると、一ぺんどうでん、こうでん連れて参って下さいというような雰囲気を持っている方達が沢山いるでしょう。皆さんが言うならば自慢話なら自慢話をないますとそんなこつですかと言って、まあそれに心を引かれることがございましょうが。これはですね。まあ何でも同じでしょうけど。
 お店でも新しく開店致しますと、どんな皆が一ぺん行ってみたいと、安いじゃろうか。高いじゃろうか。サービスはどうじゃうかというようなみんなの心の中に、皆が心の中に動くように、なら固定してしまいますとその店に寄ってみたいという好奇心はなくなってくる。同じなのです。例えば教会にいたしましてもそうです。何十年という教会がここにあると致しますとですね。なら参りたいという人は参ってしまっている。特別に何かあったら、あすこに参ってみようといった様な雰囲気は少ないものです。
 言うならばです、合楽にはまだ未知数の信者さんが沢山あるということです。お参りをしてきてないけれども、もうここの信者同様といったような方達が、心に決めておられる人たち。信心するなら合楽。信心するならば金光様と。例えば見たり聞いたり、こうしておかげを頂いておる姿を見られて、そういう人達が私どもの周囲には沢山あるという事なのです。私はそれを聞かして頂きましてから、有難いなと思う反面、これはいよいよしっかりしなければいけないなあと思いました。その方達がならここへお参りされましても私にその力がない。500なら500だけの支える力しかないのに、ここに例えば100の人がずーと集まってくるといたしましょうか。そうしたら私の持てる力が500ですから、100という人はやっぱり零れなければならない。漏れなければならない。
 私がいよいよ力を頂く以外にないなあというような事をしきりに昨日から考えさせて貰って、今朝もその事を私は思わせてもらってですね、その事のためにその人達が合楽に一歩足を踏みいれたらです、これは有難い。皆が合楽合楽というてお参りするはずだという様なものが、私はここになからなければならない。ためにはどうぞ神様、私に力を与えて下さい。ためには私がより修行させて頂かなければならんが、修行のどういう修行させて頂いたらよいかということを心に思わせて頂いておりましたら、神様から頂きます事が、私が力を受けることもさることながら、ここにお参りさせて頂いておる信奉者の一人一人助かることだ、いよいよ皆さん一人一人が助かるより以外ないのだ。 あの人は合楽にお参りしよんなさったが何時の間にか分限者にならしゃった。あの人合楽にお参りよったが何時の間にか、健康にならしゃったというおかげもさる事ながら、成る程合楽にお参りするようになったら人間が変わりよんなさった、たすかんなさった。。家族の者が円満なおかげを頂いていかれておるという助かりにならなければいけません。お金を儲かるだけではいけません。どうかなるというのではいけません、ね、それはもちろんおかげを頂かなければいけません。けれどもそういう助かりではなくて、ここにお参りしている信奉者の一人一人が信心を頂いている人たちは何とはなしに違うなと、心が豊かで喜び一杯だ、信心の稽古をさせて頂いて、日々、ああしてお参りさせて頂いておるということがなる程合点がいく。まだ椛目時代でしたけれども、吉井の熊谷さんが毎朝ああして朝のご祈念にの久大線を利用して。草野からから椛目まで歩いて参って来なさる。もう草野の道すがらの人達なんかこうやってもう十何年間毎朝毎朝通りますのですから、又お参りですかとこういうわけなのです。そして中には時々お話する人が出来てくる。毎日毎日貴方椛目にお参りしよんなさるが、どげんかありなさるのですかと言う人達がある。やはりどげんかなかれば神様参りをしないように思っている。そういう通念があるのですよ。毎朝毎朝参ってござる。あん人どうかありなさるとじゃろうかと。若い学生が参ってくる。どうかあってちゃなかじゃろうか。そりけんあげん参りござるじゃろうというのではなくてです、お参りさせて頂いて、それが一年二年信心の稽古させて頂いているうちに、第一自分自身が助かるということ。
 助かるという事は、人柄が変わらなければ変わりません。ね、自分が助からなければ、人柄は変わって参りません。信心しよるけん、形の上だけ言葉やさしく実意丁寧な風をしただけではつまらん。心の中に実意丁寧にならなければおられない私、信心のおかげで何時も自分の心の中に和らぎ賀こびの心が何時も心の中にあるというように、そういう助かり、してみると皆さんが合楽に未知数の信者が沢山あるということを申しました。
 お参りするならいっぺん合楽の金光様にお参りする。けどもなかなか参らんじゃん、ここを教えておる。けれどそういうて特別病気したわけでなし、困った事があるわけじゃなし。わざわざ神様にお願しなければならないという事もない。何かお願いせなならん時は合楽に参ろう。そういう人達が沢山あるということです。私どもが知らないいうならば信者さんが、私どもの周囲に沢山あるということです。その人達がひとたび何かの機会を得てさあおかげ頂いて、お参りしてきた時に皆が本当に助かっている姿というものを、私は見てもらわなければいけないと。金銭のお繰り合わせも頂かなければいけません。健康のおかげも頂かなければいけません。けれども何と言っても心のお繰り合わせを頂かなければ駄目です。
 人間というものは、何時もかつもにこにこばかりしておられない事がございます。そこで心のお繰り合わせを願うのです。心の暗い時もある。腹の立つ時もある。そういう時にはです、人に接せずに済むようなお繰り合わせなのです。言うなら、ね、私自身の心の中に有難いものがある時に、人に接せられる様なお繰り合わせなのです。だから心の上にお繰り合わせを願う。お世話さして頂いて、お客さんに接する時でもそうです。ない品物を買いに来る。これじゃ来てもらっても何にもならんというようなお客さんががっかりさせねばならん。ところが新しく入品した。新しい品物が入った。そこへお客さんが見えた。あそこ行ったら、何時も品物が豊富。そういうお繰り合わせを願わなければいけんのです。
 金銭でも何時もかつもあるのではない。けれども支払いの時にはこちらのほうがお繰り合わせ頂いているというお繰り合わせを、それをお繰り合わせというなら、見事なそういうお繰り合わせが頂けるのです。必要な時に必要な状態が、必要な時に必要なお金が、必要な時に必要な時間がお繰り合わせ頂ける。そこに私は成る程、合楽にお参りしておられる。信心しておられる人達の助かっておられる姿というものがです、ああいう助かり方が出来ていくのならば自分もいよいよ信心させて貰わなければいけないというようなものになってくるのだとこう思います。
 第一私が、より沢山のご信者さんがここに集まってくる事のためには、私自身がもっと助からなければならん。もっともっと力を受けなければならないことは勿論ですけれども、それよりももっと大事なことは、皆さんの一人ひとりがっ助かるるということ。だから皆さんにはそういう責任がある。だからどうでも助からなければいけん。だからどうでも助からないかんという信心をさせて頂く。そういう願いを持たして頂いたら、どうでも教えを日々の生活の中に現していく以外にないのです。本気で教えを頂く以外にないのです。その教えが生活の中に現されていく以外にないのです、助かる道は。毎日お参りしておるという事で助かるということはないのです。ただご理解を頂いておるだけじゃ耳が肥えるだけです。本当に身体全体がこえなければいけません。心と体が一緒に肥え太っていかなきゃいけん。ために本気でお互いがですね、教えを行じさしてもらう。所謂、道の行者にならしてもらわなければいけん。徹底して教えを守らして頂く信奉者にならなければ駄目なのです。
 そこにめいめいの助かりがある。その助かりが周囲の人たちにどのくらいの助かりを及ぼしていくか分かりません。皆さんの周囲にもきっとそういう所謂、未知数のご信者さんがあると思います。そしてその人の姿をじっと見ておるのです。合楽合楽といってあれが参るが、どげな風に変わっていくじゃろうかと。どげな風におかげ頂いて行くじゃろうかと言わば見られている。所謂、注目されている私達なのです。それをこすい事はする。ずるい事はする。根性の悪いことは言う。信心のない者以下とたとえばいうものがあったとすれば、もういよいよ艶消しである。合楽の先生はどんなことを教えてござるじゃろうかと実際見に来た人があるのですから。ですから例えば病気をしておるとか、そこに直面しておるところの難儀というのは、それを一ぺんにどうする事は出来ません。けれど難儀の中にどう信心に取り組んでいるかとそういう姿が尊いのです。自分を中心にして沢山の人が助かっているのです。その手本になる様な信心をせよという事は、手本になるようなおかげを受けるということです。
 それには先ず自分自身の心の中におかげを受けさせてもらう。その助かりがです、昨日石井喜代司さんが言っていました。おかげをあせるという事は、神様を疑っているのですから、おかげにならんと言うことを言っています。もう信心はお参りをして来ませんけれども、この人は、こういう頂き方をしていきおったら、間違いないと私は思いました。おかげを焦るという事はですね、神様を疑っておることだから、おかげにhsならん。昨日一昨日、月次祭の御理解を皆さんもう一辺頂き直されるといいですね。
もう何年参とるけれど、まあだおかげにならん。はあ、五年参った十年参ったばってん、まあだおかげ頂かん。そういう人がおかげ頂くはずがありません。日々の……?それが成る程、おかげと思うようなおかげを頂いておるけれども、例えば、何というでしょうか、。百万なら百万長者になりたいと願いを立てて、こげん参りしよるばってん何時まで経っても百万長者にならんといったような考え方で、おかげを待っている。焦っているようでは、おかげにならん。焦ることは神様を疑っているのと同じこと、これはもう極言です。ギリギリの言葉です。
 ですからこれば、おかげ頂かにやならんために一生懸命になっている。一生懸命になっている間に、信心が分かるというようになからなければいかん。そして難儀な事をお取り次頂いて、もうそれでいいのだ。任せるということ。そこにです、私どもが願っていた事じゃない、それこそ夢にも思わんかったようなおかげが展開してくる。そういうおかげが現れてくるようになってくるんです。
 ですから私どもはまず自分自身が本当にそういうどういう中にあっても助かっていける道を本気で私どもが行じさしてもらう。それが今日の御理解で申しますと、自分の周囲の未知数の人達がです、それに言うならついて来る。何が何と言うてもです、氏子が助かるということが、天地の親神様の悲願なのです。神様の願いなのですから、ね、私を中心にして周囲の難儀な氏子が助かっていくという事が神様の願いですから、そういう働きが出来てくる時にです、中心の私がおかげ頂かんはずがないのです。まずめいめいが助かるためが本気でたすかる事のために本気で教えを頂こう。本気で教えを行じよう。そういう生活が自分自身の心の中から、自分の家庭の中にそういう雰囲気が広がっていかなければいけない。どうぞ。